2012年09月18日

軸ブレがひどい/おジャ魔女どれみ ナ・イ・ショ 感想


おジャ魔女どれみ ナ・イ・ショ VOL.1 [DVD]


この前から何度かエントリーにしてきたとおり、放送終了から十年近く経って見た、おジャ魔女どれみに大はまりしておりました。
でまあ、最後に残った映像作品である「おジャ魔女どれみ ナ・イ・ショ」は、レンタルだの配信だのではなく、DVD所有の上で観ることにしたわけです。
と言うわけで、「おジャ魔女どれみ ナ・イ・ショ」全13話の感想です。

とは言っても、各話の感想を一つ一つ上げるつもりはありません。どの話もできが良いのですが、とにかくシリーズとして軸がぶれており、感動したにも関わらず非常に納得のいかない物が残ったためです。

と言うわけで、例によって先に結論を。

1,できは非常に良い。予算も手間も潤沢に投入され、丁寧な作品作りがされている。
2,しかし、シリーズとして軸がぶれ、「友情物語」として破綻している。
3,その破綻の原因は、「親の目線」の貫徹である。


まず、1から行きましょう。毎回背景やコスチュームを書き下ろしている丁寧さもそうですし、動きやデフォルメなどが高水準にまとまり、アニメーションとして豪華です。魔法や変身はバンクですが、そもそも魔法は後景に退いているので余り気にならず。デフォルメも、本編とは若干方向性が違うのですが(歯の描き方とか表情の崩し方とか)、別に出来が悪かったり世界観と極端に衝突しているわけではないので、「このシリーズはこう言う感じ」で流せます。

話としても、スポットの当たったキャラクタハーはきちんと立たせていますし、既存のキャラクターを壊すことはありません。むしろ、はづき回(11話)に典型的に見られるように、本編中の人間関係や積み残しを上手く消化し、シリーズのファンを納得させる展開になっています。


しかし、2です。
今回最大の問題は、各話で提示される問題に対し、ほぼ全てのキャラクターが「ピン」で立ち向かってしまうことにあります。おんぷ先生(4話・10話)が典型的なんですが、彼らは友達の手を借りません。もっと言えば、友達に手助けさせる余地を与えません、
これは友情物語としては完全に破綻してしまっており、本編からみると明らかに軸がぶれています。

具体的に言えば、4話のおんぷ先生の悩みは本人が解決せざるを得ないとしても、友人の誰かの言葉や態度を、きっかけとして使うべきでした。
10話はまだおんぷと他四人の相互フォローが見えるのですが、おんぷが手助けされる必然性が余りに弱すぎます。何が問題かと言えば、クラスメートの秘密を抱え込んで沈黙するおんぷ先生を理解し認めると言う役目を、父親が奪ってしまっているのです。あそこでおんぷ先生が「救われる」条件は、優等生が自白することではなく、誰かがおんぷの真意を理解して上げる事でした。そして、それは本来仲間達の役割だったにも関わらず、父が先に理由があるに違いない、と無条件でおんぷを信じてしまうため、仲間達の行動は二次的な物にしかならなくなっているのです。

逆に、はづき回(11話)では、仲間達が魔法で情報を割った上で、協力してはづきの背中を押します。これは、見事に友情物語として機能しています。(もっとも、はづきが仲間達に感謝するシーンが抜けてしまっているため、片手落ちなのですが)

そしてこの問題は、12話13話で頂点に達します。
非常にできが良い、そして魔法という物の限界を提示するが故に魔法少女物としてもっとも強力な12話で、仲間達はどれみを救えません。救うのは、ノンちゃんの母親と退院したゲンキで、仲間達はどれみの悲しみを見ていることしかできないのです。
別に、臭いシーンを入れる必要はありません。落ち込むどれみに寄り添い、そばに居てやる描写だけで良かったはずです。それだけで、たったそれだけで、友情という物の本質は描き切れたはずなのですから。

13話については、もっと話が深刻です。
このエピソードは、良くできているのですが、決定的に重要なポイントをすっぽり抜かしています。
それは、「どれみが最も大切にしていたのは友情だった」という前提です。どれみは、友達を何より大切にする存在で、だからこそ主人公でした。それ故に、4期終盤で仲間を見送る痛々しさが最終話で昇華された、あの素晴らしいエンディングが生まれたわけです。

ところが、13話においてどれみが孫に残せたのは、魔法を信じる心であり、母から受け継がれた娘・孫への想いでしかありません。ファミはどれみを見て感動しますが、どれみさんが本来孫に語るべきは、同じ時を過ごした「大切なお友達」の事では無いのでしょうか?そして、本来のどれみさんであれば、孫に残すべき思いは血のつながりという所与の代物ではなくて、自分の力で泣いたり笑ったりしながら構築した友情、「お友達を大切に」と言う思いでなければいけないはずです。
繰り返しますが、これは本編が友情物語であった以上当然のことです。1期のラストでどれみ達は友人を助けるために魔法を放棄し、4期のラストでは私を置いていかないでと叫び、多くの友人に囲まれて「世界一幸福」を自覚します。両親がステーキで釣るという全く空気を読まない解決法を提示して失敗するのは、この部分を強調するために必要なシーンだった、と言えるでしょう。

そしてこれも、本来演出するのは簡単だったはずです。例えばファミに、「どれみおばあちゃんがよく話していたお友達」とか言う形の言及をさせなかった、その意味が解りません。あるいは、最後の帰還シーケンスで、一人で呪文を唱える彼女の後ろに似たような魔女見習いのシルエットを出すだけで、受け継がれたのが単なる血や親子の情・家庭内の習慣と言った物ではない事を、示せたはずです。
実際問題、親が子どもに次いで欲しいのは、「血」だけなのでしょうか?そうであれば、子どもさえいればあとはどうでも良いはずです。しかし、多くの親は、子どもに対し、自分の、価値観まで言わないとしても、「大切に思っていること」を大切にして欲しい、と願うはずです。職を継いで欲しいとか、家を守って欲しいとか、そう言う諸々はつまるところそこに行き着くわけで。
ですから、どれみさんが後に残せた物に「友情の価値」が入らないのであれば、これは物語としては破綻していると言っても良いと思います。


で、3です。
なんでこのようなブレが生じたかと言えば、制作スタッフが子どもの目線を忘れてしまったからでしょう。この前買った資料集で、関プロデューサーが1期ヒットの理由として、親目線ではなく子どもの目線を徹底したこと、と書いていて感動したのですが、これを忘れているとしか思えません。(2期以降、強弱有りつつこの問題はついて回っていましたが)
つまりどう言うことかと言えば、親から見た理想の子どもとしてどれみさん達が再構成されてしまっている結果、親の手の届かない友情ではなく、親との関係で物語が進むようになってしまっているのです。
先に書いたおんぷもそうですし、肝心な所で母と娘・孫の話にしてしまった13話もそう。12話にしても、「ノンちゃんの母親」との雪合戦で終わるのは、主人公のどれみよりも、あの母親の救済を、優先させてしまったからでしょう。前回散々指摘したので繰り返しませんが、4期終盤の精度を著しく落としていたのも、この辺の混乱でした。まあ、あれは最終話でどれみさんが叫ぶことで、何とか誤魔化せていたのですが……

勿論このねじれて導入された価値観は、親子関係に的を絞った7話などでは有効に機能します。(息子から挑戦される親父さんの、何と嬉しそうなこと!)6話のばあや回も、でき自体は良かったです。しかし、最後に友情の話で有るかのように偽装していますが(あれをお友達って言われても……)、つまりはばあや・はづきの疑似親子物で、友情に出番が与えられていません。
当然ながら、それが悪いのではなく、そう言った方向性ばかりが貫徹して、本来もっとも重要なポジションにあった友情が蔑ろにされているのが問題なのです。そして、上にも書いたように、親達の介入がなければ、「おジャ魔女どれみ」としての作品精度は、はるかに強くなったはずなのです。


と言うかですね、前にふたつのスピカ・ドラマ版(大駄作)の感想で似たことを書きましたが、友情をテーマにした作品で、問題を大人が解決してしまっては、友情をテーマに、子どもを主人公に据えた意味などなくなってしまうのです。

そもそも、思い返していただきたいのですが、そんな主人公達の話を、子どもだった我々は楽しみましたか?
断じて、違うはずです。ドラえもん(超ファンタジー)から名作児童文学(リアルより)まで、我々がワクワクして親しんだ物語は、子どもがその力を振り絞って困難に向かい合う話だったはずです。その力とは、足りない知力や知識・体力と、それを補う友情で、追加である魔法だの科学だのはつまるところ「自分たちで」問題を解決するための小道具です。
当たり前ですよね?子どもだった我々は日々力の無さを良く知っていて、自分で・大人に頼らず問題を解決できる力を求めていたのですから。だからこそ、大人・親と言った「最初から与えられているもの」ではなく、「自分で手に入れた友情」は単なるリソースとしてではなく輝く価値を設定されるわけです。
別にこれは個人的体験の一般化ではありません。「ギャング・エイジ」と言う発達段階の定義は、つまりそう言う事ですから。

勿論、親子関係の話はあっても良い。お父さんやお母さんが魅力的な話は、決して悪いわけではない。しかしそれは副次的で、間違っても物語の中心に据えてはいけないはずです。そう言った親子関係至上主義が生み出した気色の悪い方向が、戦後の児童文学で淘汰されていったのは、事実なのですから。有名な早稲田文学の宣言が示すとおり、子ども向け作品は親向けの作品であってはいけないのですから。(興行的な意味で、親に目配りするのは当然必要ですが、それは勿論作品評とは別の話になります。良質な子ども向け作品が大人の心に響くのは、全ての大人は元・子どもだからだという事は、もう少し意識されても良いのではないでしょうか?)


これは完全な脇道ですが、親的な目線としても、自分が先に逝くことが確定している親子の関係を、一生の財産となる友情より常に優先する子どもは、本当に魅力的なんでしょうかね?子どもが友人との約束を優先して親の誘いを断るとか、親は悲しいと同時に、その成長が喜ばしいもんじゃないんでしょうか?少なくとも、うちの親はそう言う事を言っていましたが。


閑話休題、各話のできの良さに喫驚しつつ、余りに軸をずらした脚本にビックリしたのですよ。本編で友情を描ききったから、スピンオフとして個別エピソードを重視した、と言う事なのかもしれませんが、良質な外伝は関係性や前提が本編とリンクしてこそ。つまりは軸を共有していないと、作品全体をブレさせてしまうだけじゃないのかと思います。

そして何が悲しいって、このOVAは現在シリーズの最後で、以後補完される可能性は極めて低いと言う事でしょう。それこそ、追加エピソードとしてファミの時代を垣間見せて彼女がどれみの価値観を受け継いでくれていることを示す、あるいは年老いたあとのどれみの所に、かつての友人達が頻繁に訪れた、と言うような描写を入れるだけで、全く違ったはずなのですから。
余談ですが、私の曾祖母は学生時代からの友人とずっと仲が良く、私が生まれる前くらいまで(つまり存命中)は、遙か明治生まれのお婆さん達が実家に集まって歓談していたそうです。当時の写真など残っていますが、みな仲が良く笑顔でお茶会を楽しんでおり、「本当の友情というのは長く続く物なのだな」と言う認識を与えてくれます。ですから、私は「どうせ女性の友情なんぞ……」式のステロタイプには迷わず唾を吐きますし(いや、そう言うのが多いのは解っています。女の兄弟はおりますから)、友情なんぞ時間が経てば消えて無くなる、と言うのはメンテナンスを怠っただけだと言わせて頂きます。
つまり、どれみさんの友情は当然後にも続いたはずで、その「たからもの」を孫に残せなかったかのようなあの描写は、シリーズ締めくくりとして許しがたいと言うことです。
だから、是非続編とか作って欲しいですねえ。あ、追加エピソードが入ったBlu-ray BOXとかでも、この際問題ありませんので。と言うか、市中在庫のDVDは、いくら買ってももはや制作者に金は入らないわけで、Blu-ray BOXは早急にお願いしたいです。




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